4年前のこと③3月13日
2015.03.12(Thu)
震災当時、私が持っていたものです。
すぐに帰ることができる。
帰れなくても、荷物を取りに行くことくらいできるだろう・・・
そう思っていたのが間違いだと分かった時には、どうにもなりませんでした。
私の財産
全財産の入った財布。
図書館で借りた本1冊。 【双葉町図書館で借りた本が仕事用のバッグの中に入っていた】
(児童書ペギースーシリーズ)
白衣のポケットに入ってたキッチンタイマー、はさみ、ボールペン、サインペン。
化粧品。
携帯。(充電器なし)
携帯用イヤホン。
チョコレート(職場におやつ用に置いていたもの)
髪を束ねるゴム1本。
薬一式。(喘息薬など)
毛布2枚。
ブラとパンツ各1枚ずつ。
ユニクロのジャージ上下。
靴下一足。
コート1枚
ノート一冊。
コップ代わりのペットボトル。
甥っ子が拾ってきた石英。
震災当時のお話です。
長くて、写真もありません。
興味のある方だけご覧ください。
すぐに帰ることができる。
帰れなくても、荷物を取りに行くことくらいできるだろう・・・
そう思っていたのが間違いだと分かった時には、どうにもなりませんでした。
私の財産
全財産の入った財布。
図書館で借りた本1冊。 【双葉町図書館で借りた本が仕事用のバッグの中に入っていた】
(児童書ペギースーシリーズ)
白衣のポケットに入ってたキッチンタイマー、はさみ、ボールペン、サインペン。
化粧品。
携帯。(充電器なし)
携帯用イヤホン。
チョコレート(職場におやつ用に置いていたもの)
髪を束ねるゴム1本。
薬一式。(喘息薬など)
毛布2枚。
ブラとパンツ各1枚ずつ。
ユニクロのジャージ上下。
靴下一足。
コート1枚
ノート一冊。
コップ代わりのペットボトル。
甥っ子が拾ってきた石英。
震災当時のお話です。
長くて、写真もありません。
興味のある方だけご覧ください。
深夜から、朝になっても強い余震は続いていました。
強い揺れに、慌てて逃げ道を確保しようと、いつもだったら窓や玄関を開けるところですが、放射能を含む空気があるので開けることができなくなりました。
子供たちを外には出さないように神経質になりはじめて、早くもっと遠くに逃げなければ…と、
私と妹は焦っていました。
当ては無いけれど、川俣町、福島市や関東の方向へ…原発から逃げなければという気持ちでした。
自分の命など、どうなってもいい。でも、子供たちに被害が及ばないところに行きたいと、そう考えていました。
しかし、父は津島のこの親戚の家にとどまりたい気持ちだったようでした。
他に行くところもなく、どんどん町から、自分達の家から離れていかなければいけない状況を、認めたくない。
そんな風にも見えました。
原発が落ち着いたら直ぐに帰れるかもしれない。
そう思い込みたい気持ちも強かったのは私も同じでした。
そんな時、連絡の取れなかった末妹から連絡が入りました。
川俣町の避難所にいるというのです。
嫁ぎ先の家族と一緒に避難所になっている小学校にいるという話で、皆無事と聞きました。
妹に会いたい!
安堵と共にそう思いました。
妹達と会いたい気持ちと、どうしてよいのかわからないこの状況を、同じく避難している人達と話してみたいという気持ちがありました。
家族で話し合って、川俣町の避難所に向かい、妹と合流することにしました。
そうと決まれば、早く出発した方がいい。
同じように遠くに逃げたいと考える人が多いだろうと予想できたからです。
でも、父は親戚にそう言うことが出来ず、時間だけが過ぎていきました。
妹から電話が入って、その後、携帯の電波がいくらか改善されて、メールが入ってくるようになりました。同じ職場の人から、各自の避難先を知らせるメールが続々と届きました。
浪江町の一人は会津の湯川村。もう一人は埼玉県。
大熊町の二人は田村市の避難所。
小高町の一人とは連絡がつきません。この人は、震災当日、福島県立医大を受診するために休みを取っていて、不在だったのです。
旦那さんと二人で福島市にいるはずの時間に震災が発生しました。
子供さんは小学生と高校を卒業した子が家にいたはずです。そして、自宅のある場所は私の家から近い小高地区の低地でした。
津波の被害が酷かった地区のすぐ隣です。津波がそこまで到達したのかどうかもわかりませんでした。
そして、その後ややしばらくして、私達は末妹と合流したいから…と、親戚の家を辞して出発しました。
出発の時、甥っ子は
「お家に帰るの?」
と、聞いてきました。幼いなりに、家に帰ることができないこの状況を不思議に思っていたのでしょう。
私は何度も繰り返して聞かせた話を繰り返しました。
「お外にね、毒ガスがあるんだって。お家に帰ったら、お熱が出たりお腹いたくなったりして、大変だから帰れないんだよ。これからみー(末妹)のところに行くから、TとAに会えるよ」
しばらくあっていなかった従兄弟たちの名前を聞いて、甥っ子は嬉しそうな顔になりました。
「TっくんとA、いるの?」
「いるよー。一緒に遊ぼうね」
そんな会話を交わして、あとはトトロのテーマソングを歌ったりしながら、川俣町へ向かって車を走らせました。
妹に会える。そう信じて疑っていませんでした。
川俣町へ向かって、車を走らせると、道路は意外と空いていました。
すいすいと進んでいく間、やはり浪江の町に比べたら被害の少ないように見える町並みをみつめていました。
すると、対向車線の歩道に車が止まっているのが見えました。
最初は避難してきた人が、車を止められなくて、歩道に置いているのかと思いました。
しかし、すぐにそうではないことに気づきました。
車は長い行列を作っていて、その先にあったのはガソリンスタンドだったのです。皆、ガソリンを求めて長い行列を作っていたのです。
ガソリンを入れたい気持ちはありました。しかし、この長い長い行列に並ぶことは考えませんでした。今、最後尾に並んだから、スタンドのガソリンが無くなるころに順番が来そうでした。それくらいに長い列だったのです。
そこを通りすぎて川俣町の町中に入ると、やはり車がなかなか進まなくなりました。
避難所に入りきれない人で溢れているのです。
しかたない。気長に待つしかないな。と、思っていると、妹から電話が入りました。
しかし、繋がらず切れてしまいます。こちらからかけ直そうとしても、「電波が込み合っております。少したってからお掛け直しください」とアナウンスが流れます。
携帯は不安定で、電波はあったりなかったり、メールが来ているかどうかを確認することもできなくなっていました。
ようやく、父の電話に妹からの着信があって、話すことが出来ました。
「今から矢祭町の親戚の家に避難することになった。もう、避難所は出た」
ということでした。
妹に会うことはできなくなりました。目と鼻の先にいたのに…
私達は入りきれない車の列が続いている川俣町の避難所を離れ、別の道を探すことにしました。
いく先の当てはふたつ。
母の姉が暮らすいわき市にお世話になるか、父の従兄が住む埼玉県に向かうか…
どちらの家にも電話は繋がらず、行って良いかどうかの確認も取れていませんでした。
それに妹の車のガソリンは残り少なく、いわき市までたどり着くことはおろか、埼玉になど行けるはずもない残量になっていました。
まずはガソリンをなんとかして調達しようと、郡山市に向かいました。
国道4号線沿いなら、空いているガソリンスタンドもあるだろうというのが父の意見でした。
父の車について、先に進むと、開いているガソリンスタンドが何軒か見つかりました。しかし、どのガソリンスタンドも長蛇の列です。並んでいる車はどれも福島ナンバーで私達のような避難者は少ないように見えました。
長い列に並んで、途中に横入りする車などにいらいらしながら長時間待ちました。
そして、給油できたのは1000円分でした。わずかに8リットルほどです。
もう少し進んで、49号線の近くにあるガソリンスタンドにも並びました。
こちらの待ち時間はゆうに3時間を越えました。
間に横入りする車が多かったのです。
この待ち時間の間に、いわきの叔母と連絡がとれました。通信手段は公衆電話です。
コンビニにあった公衆電話がようやく、叔母の自宅の電話につながったのです。
叔母は快く、私達を受け入れてくれるといってくれました。
あとはひたすらガソリンが入るのを待つばかりでした。
そんなとき、姪っ子のMが泣き出しました。
お腹が痛いと言うのです。もともと便秘がちの子ですが、ここ数日の不規則な食生活と、車の中に閉じ籠る運動不足で、症状が悪化してしまったようでした。
泣きながら必死にウンチをしようとしているMをだっこして、便秘にいいと言われるマッサージをしました。
これでダメなら浣腸しかないのですが、そんなもの避難の荷物には入っていませんでした。
ややしばらくして、少量の便が出て、Mの腹痛は収まったようでした。
私はなにか代わりになるものを探しに車を降りて歩き始めました。
ドラッグストアが開いていればと思ったのです。
しかし、開いている病院もドラッグストアもありませんでした。
この先どうしようと思いながら、子供に必要な薬剤や両親の血圧の薬を手に入れるのは急務になると考えていました。
この頃になると、家族はみんな無表情や疲れた顔をして、ぼーっと考え込んだりすることが多くなりました。
3歳の甥っ子は急に赤ちゃん言葉を口にするようになっていて、みんなストレスがたまっているのは間違いありませんでした。
結局、このガソリンスタンドでは2000円分、13リットルのガソリンが入って、父の車は満タン。
妹の車は半分くらいのガソリン残量になりました。
これで、いわきに向かうことができます。
私達は49号線を通り、いわきへと向かいました。
車は一路、49号線をいわき市に向かっていました。
妹の運転する車の中で、子供達は座席を行ったり来たり、上ったり降りたりしてはしゃいでいました。
朝、津島の親戚の家で頂いたご飯と焼き鮭を食べられなくて、おにぎりにしてありました。
子供達に食べさせながら、こぼれたご飯をつまんだだけでお腹はいっぱいでした。
この時は食欲というものをほとんど感じませんでした。
しばらくして上の子は後ろの座席で、下の子は私にだっこしたまま眠ってしまいました。
童謡やジブリの音楽をかけていたオーディオをラジオに切り替えましたが、山沿いの道で電波状況が悪く、聞き取れません。
携帯の電波はきまぐれて…でも時々、メールの受信やネットにつながることがありました。
まずしたのは、原子力安全保安院のメールサービス登録でした。何よりも情報が欲しかったのです。
次に妹の携帯を使って、東京電力と、妹の旦那からのメッセージを伝えてくれた番号にかけ続けました。
コール音はならず、つながりません。
車はいわきに近付いていて、ガソリンスタンドが見えました。誰も並んでいません。
やっていないのか…
そう思って通りすぎると従業員の姿が見えました。
営業していたのです。
そこをすぎてしばらく行くと、ラーメンやさんがありました。
店の中には家族連れの姿がありました。あまりにも普通の姿に私たちは少し呆然としていました。
「夢かな?…ただ用事があっていわきに向かってるみたいじゃない?」
妹と話しました。
「…夢だったらホントに良かったよね」
それからしばらくして、車はいわき市に入りました。
店は普通に開店しています。浪江にもあったコメリというホームセンターに入りました。
レジに並んでいたのは市内の方がほとんどで、セメント用の砂や、水を入れるポリ容器がよく売れていました。家の補修に使うのでしょう。
確実に町は動いていて、私たちは茫然自失。
何かにだまされているような気持ちで、ちょっとの買い物にすごく時間がかかりました。
購入したのは、歯みがき粉、歯ブラシ、化粧水、洗顔フォーム、タオルです。
このとき、私は自宅にいたときに着ていたユニクロのスウェット姿でした。着替えはひとつも持っていませんでした。化粧もしていません。お店の自動ドアに映る自分の姿を見て、ちょっとひどいな…と思いました。父は家で片付けをするために、震災当日仕事で着ていたツナギ姿。母はやはり仕事用のジャージ。
叔母の家に向かう途中、道路は本当に地震があったのかと思うくらいにきれいで亀裂もありませんでした。
叔母の家に着くとそこには先客がありました。
富岡の親戚のご夫妻です。同じく原発の避難で、町を出て避難所で一夜を過ごし、更に避難するように言われて、叔母の家を頼ってきていたのです。
私達5人には八畳の和室を用意してくれていて、私たちは荷物を運び入れて、ほっとしました。これで少し落ち着くことが出来ると思ったのです。
いわきの叔母の家に、荷物を運び入れて、お茶を出されてようやく座ると、私達はテレビのニュースに釘付けになりました。
1号機が水素爆発を起こした後から、原発周囲の放射線量モニタリングが行われていて、数値が発表されていました。
でも、その数値は数時間前のものが最新でした。
シーベルトって何?
マイクロ、ミリってどう違うの?
放射線の単位、医療で使う量との比較が詳しく解説されていました。
1号機、3号機には海水が注入されていて、2号機も圧力が上がっている。
予断は許されない状況でしたが、爆発の後、放射線量は一時的に高くなって、その後は徐々に下がっていて原子炉の状態は安定してきている。そういうニュースが続いていました。
良かった。
このまま落ち着いてくれれば近いうちに帰れるかもしれない。
そう思いました。
原発事故以外には津波のニュースばかりが続いていて、叔母が少し頭と目を休めなさいと言ってテレビを消しました。
自然と話はそれぞれの家族がどう過ごしていたかという話になりました。
富岡の親戚は、震災当日川内村に避難するように言われて、やはり着の身着のまま、すぐに帰ることが出来ると思って避難したそうです。
寒い体育館で一夜を過ごすと次は川内村も避難区域に入ってしまいました。
そこで、いわきを頼って避難することにしたが、道路は凍結していて、地割れで道路は寸断されていて、カーナビに頼って何とかたどり着いたというのです。
二人とも疲れきっているように見えました。
いわきはいわきで、震災以来断水が続いていました。飲み水は近くの浄水場で長い行列に並んで、家中のありとあらゆる容器に汲んできて使っていました。
電気やガスは大丈夫だったのですが、放射線の影響でエアコンは使わないようにテレビで言われていたこともあり、暖房は灯油のファンヒーターを使用していました。
最近、灯油を配達してもらったばかりということで、灯油はたっぷりありました。でも、どのくらいで灯油が正常に供給されるか分からないので、節約のため温度設定を18度にしていました。
トイレは水が使えないので、使用した後はバケツで水を流していました。そのための水は近くの川から汲んできてお風呂にためてありました。
手を洗うことはできなかったので、アルコールジェルとウェットティッシュを使用していました。
それでも、明るく、壊れていない家で布団を敷いて足を伸ばして眠れる状態に、私達は本当にほっとしていました。
しばらくはここで落ち着いて暮らすことが出来ると思っていました。
叔母と従姉が用意してくれた夕飯をいただいて、私は家族が眠るための布団を敷くために二階の部屋に上がりました。
布団を敷いて、あとは寝るだけと思ったら、ここで不意に涙が止まらなくなってしまいました。後から後から、涙がこぼれてきて、止まりません。
ほっとしたら、置いてきてしまった動物のことを思い出してしまったのです。
家の中に置いてきてしまった犬には、餌も水も1日分しかありません。
猫の餌も山盛りにしてきたけど、数日持てばいいくらいの量でした。
そして、残りの二匹の犬は繋いだままです。
そのことは考えないように、考えないようにしてきました。考えてもどうしようもない。
津波に流された家の人のことを思えば、命があるだけでありがたいことだ。
諦めないといけない。
心の中でずっと、さよならをしなければいけないと、そう思っていました。
今は人間が生きるために諦めないといけない。
子供たちが無事だっただけで良かった。子供を守らないといけないと、そう思い続けていたのが、ほっと一息つける状況になって気持ちがゆるんでしまったのだと思います。
心の中にぽっかりと黒い穴が開いたような気がしました。
その穴を甥っ子姪っ子で塞いでいたのが、外れてしまいました。
考えないように、
思い出さないようにしようとしても、
自然と動物たちが飢え乾きに苦しんでいる姿が思い浮かんでしまいます。
なんとか、家の中から逃げ出してくれているといい。続いていた余震で家が崩れたり、壊れたりして下敷きになってはいないだろうか?
誰も帰ってこない暗い家にたたずむ猫の姿を考えるだけで辛くて…
悲しくて…
どうしてもっと強く、連れていきたいと言わなかったのか…
どうして、つないだままにしてきたのか…
避難指示が拡大されたときに一度戻れば良かった…(実際には警察の検問に阻まれて、戻ることはできない状況でした)
そんな後悔ばかりが頭をよぎります。
しばらくして、戻らない私を心配した母と妹が上がってきました。
泣いている私を見て、
「泣かないで…」
妹が抱きついて言いました。
「ずっと我慢してるのはわかってたんだ。犬のこと考えてるんだろ?昨日も眠ってなかったし…大丈夫だから。津波で流された訳じゃない。生きてるんだから」
母が言いました。
「泣きたいときは泣いたっていいんだから」
「泣きたいだけ泣いたらいい」
声をあげて泣きました。
妹も大事な猫たちを二匹、地盤が半分なくなった家の中に置いてきています。
母も可愛がって毎晩一緒に眠っていた猫がいました。
辛いのは私だけじゃない。分かっていても、なかなか涙は止まりませんでした。
しばらくそうして泣いた後、私は階下に降りました。思い切り泣いて、少し気持ちは落ち着いていました。
私がそうして泣いていた間に、いわきに住む親戚が叔母の家に訪れていました。
その人はいわき市内のデパートに勤めていて、今日も仕事帰りに来てくれたのだそうです。
そして、私達が必要とする品物を買ってきてくれるというのです。
私達は、それぞれの肌着と子供の紙オムツをお願いしました。
その方の家ではすでに水も復旧していて、洗濯ができるというので、子供たちの服を洗ってもらうことになりました。子供の服はどんなに注意していても汚れてしまいます。着替えも2、3枚しかない状態でした。
また、従姉は自宅から自分や旦那さんのTシャツや、子供たちの古着を持ってきてくれました。
従姉の子供たちは4歳と7歳の男の子です。
それから、翌日の打ち合わせをしました。
急に人数が増えたので食材や水など必要なものが多かったのです。
私と妹は、従姉の家で子供たち4人の世話。
富岡の夫妻のうち、旦那さんはからだの調子がよくないので電話番。
奥さんと叔母とうちの母は食材の買い出し。
従姉と父は水を汲みに行く。
従姉の旦那さんと、叔父は仕事です。
おおまかにそんな話をして、その晩は休むことになりました。
ヤカンでお湯を沸かして、水でちょうどいい温度にして、子供たちの体を拭いて、自分達は歯磨きをして顔を洗って休みました。
前の晩眠っていなかったこともあって、私はすぐに眠ってしまいました。
避難当時の話は、これでおしまいです。
続きを書くことも出来ますが、つらくてできないのです。
それに、時間がたちすぎていて、記憶があいまいな部分もありますし、思い違いをしているかもしれません。
震災当時の避難がどんな状況だったのか・・・
すこしでも知っていただけたらと思います。
お読みいただきありがとうございました。
次回からはいつもの猫ブログに戻ります。
強い揺れに、慌てて逃げ道を確保しようと、いつもだったら窓や玄関を開けるところですが、放射能を含む空気があるので開けることができなくなりました。
子供たちを外には出さないように神経質になりはじめて、早くもっと遠くに逃げなければ…と、
私と妹は焦っていました。
当ては無いけれど、川俣町、福島市や関東の方向へ…原発から逃げなければという気持ちでした。
自分の命など、どうなってもいい。でも、子供たちに被害が及ばないところに行きたいと、そう考えていました。
しかし、父は津島のこの親戚の家にとどまりたい気持ちだったようでした。
他に行くところもなく、どんどん町から、自分達の家から離れていかなければいけない状況を、認めたくない。
そんな風にも見えました。
原発が落ち着いたら直ぐに帰れるかもしれない。
そう思い込みたい気持ちも強かったのは私も同じでした。
そんな時、連絡の取れなかった末妹から連絡が入りました。
川俣町の避難所にいるというのです。
嫁ぎ先の家族と一緒に避難所になっている小学校にいるという話で、皆無事と聞きました。
妹に会いたい!
安堵と共にそう思いました。
妹達と会いたい気持ちと、どうしてよいのかわからないこの状況を、同じく避難している人達と話してみたいという気持ちがありました。
家族で話し合って、川俣町の避難所に向かい、妹と合流することにしました。
そうと決まれば、早く出発した方がいい。
同じように遠くに逃げたいと考える人が多いだろうと予想できたからです。
でも、父は親戚にそう言うことが出来ず、時間だけが過ぎていきました。
妹から電話が入って、その後、携帯の電波がいくらか改善されて、メールが入ってくるようになりました。同じ職場の人から、各自の避難先を知らせるメールが続々と届きました。
浪江町の一人は会津の湯川村。もう一人は埼玉県。
大熊町の二人は田村市の避難所。
小高町の一人とは連絡がつきません。この人は、震災当日、福島県立医大を受診するために休みを取っていて、不在だったのです。
旦那さんと二人で福島市にいるはずの時間に震災が発生しました。
子供さんは小学生と高校を卒業した子が家にいたはずです。そして、自宅のある場所は私の家から近い小高地区の低地でした。
津波の被害が酷かった地区のすぐ隣です。津波がそこまで到達したのかどうかもわかりませんでした。
そして、その後ややしばらくして、私達は末妹と合流したいから…と、親戚の家を辞して出発しました。
出発の時、甥っ子は
「お家に帰るの?」
と、聞いてきました。幼いなりに、家に帰ることができないこの状況を不思議に思っていたのでしょう。
私は何度も繰り返して聞かせた話を繰り返しました。
「お外にね、毒ガスがあるんだって。お家に帰ったら、お熱が出たりお腹いたくなったりして、大変だから帰れないんだよ。これからみー(末妹)のところに行くから、TとAに会えるよ」
しばらくあっていなかった従兄弟たちの名前を聞いて、甥っ子は嬉しそうな顔になりました。
「TっくんとA、いるの?」
「いるよー。一緒に遊ぼうね」
そんな会話を交わして、あとはトトロのテーマソングを歌ったりしながら、川俣町へ向かって車を走らせました。
妹に会える。そう信じて疑っていませんでした。
川俣町へ向かって、車を走らせると、道路は意外と空いていました。
すいすいと進んでいく間、やはり浪江の町に比べたら被害の少ないように見える町並みをみつめていました。
すると、対向車線の歩道に車が止まっているのが見えました。
最初は避難してきた人が、車を止められなくて、歩道に置いているのかと思いました。
しかし、すぐにそうではないことに気づきました。
車は長い行列を作っていて、その先にあったのはガソリンスタンドだったのです。皆、ガソリンを求めて長い行列を作っていたのです。
ガソリンを入れたい気持ちはありました。しかし、この長い長い行列に並ぶことは考えませんでした。今、最後尾に並んだから、スタンドのガソリンが無くなるころに順番が来そうでした。それくらいに長い列だったのです。
そこを通りすぎて川俣町の町中に入ると、やはり車がなかなか進まなくなりました。
避難所に入りきれない人で溢れているのです。
しかたない。気長に待つしかないな。と、思っていると、妹から電話が入りました。
しかし、繋がらず切れてしまいます。こちらからかけ直そうとしても、「電波が込み合っております。少したってからお掛け直しください」とアナウンスが流れます。
携帯は不安定で、電波はあったりなかったり、メールが来ているかどうかを確認することもできなくなっていました。
ようやく、父の電話に妹からの着信があって、話すことが出来ました。
「今から矢祭町の親戚の家に避難することになった。もう、避難所は出た」
ということでした。
妹に会うことはできなくなりました。目と鼻の先にいたのに…
私達は入りきれない車の列が続いている川俣町の避難所を離れ、別の道を探すことにしました。
いく先の当てはふたつ。
母の姉が暮らすいわき市にお世話になるか、父の従兄が住む埼玉県に向かうか…
どちらの家にも電話は繋がらず、行って良いかどうかの確認も取れていませんでした。
それに妹の車のガソリンは残り少なく、いわき市までたどり着くことはおろか、埼玉になど行けるはずもない残量になっていました。
まずはガソリンをなんとかして調達しようと、郡山市に向かいました。
国道4号線沿いなら、空いているガソリンスタンドもあるだろうというのが父の意見でした。
父の車について、先に進むと、開いているガソリンスタンドが何軒か見つかりました。しかし、どのガソリンスタンドも長蛇の列です。並んでいる車はどれも福島ナンバーで私達のような避難者は少ないように見えました。
長い列に並んで、途中に横入りする車などにいらいらしながら長時間待ちました。
そして、給油できたのは1000円分でした。わずかに8リットルほどです。
もう少し進んで、49号線の近くにあるガソリンスタンドにも並びました。
こちらの待ち時間はゆうに3時間を越えました。
間に横入りする車が多かったのです。
この待ち時間の間に、いわきの叔母と連絡がとれました。通信手段は公衆電話です。
コンビニにあった公衆電話がようやく、叔母の自宅の電話につながったのです。
叔母は快く、私達を受け入れてくれるといってくれました。
あとはひたすらガソリンが入るのを待つばかりでした。
そんなとき、姪っ子のMが泣き出しました。
お腹が痛いと言うのです。もともと便秘がちの子ですが、ここ数日の不規則な食生活と、車の中に閉じ籠る運動不足で、症状が悪化してしまったようでした。
泣きながら必死にウンチをしようとしているMをだっこして、便秘にいいと言われるマッサージをしました。
これでダメなら浣腸しかないのですが、そんなもの避難の荷物には入っていませんでした。
ややしばらくして、少量の便が出て、Mの腹痛は収まったようでした。
私はなにか代わりになるものを探しに車を降りて歩き始めました。
ドラッグストアが開いていればと思ったのです。
しかし、開いている病院もドラッグストアもありませんでした。
この先どうしようと思いながら、子供に必要な薬剤や両親の血圧の薬を手に入れるのは急務になると考えていました。
この頃になると、家族はみんな無表情や疲れた顔をして、ぼーっと考え込んだりすることが多くなりました。
3歳の甥っ子は急に赤ちゃん言葉を口にするようになっていて、みんなストレスがたまっているのは間違いありませんでした。
結局、このガソリンスタンドでは2000円分、13リットルのガソリンが入って、父の車は満タン。
妹の車は半分くらいのガソリン残量になりました。
これで、いわきに向かうことができます。
私達は49号線を通り、いわきへと向かいました。
車は一路、49号線をいわき市に向かっていました。
妹の運転する車の中で、子供達は座席を行ったり来たり、上ったり降りたりしてはしゃいでいました。
朝、津島の親戚の家で頂いたご飯と焼き鮭を食べられなくて、おにぎりにしてありました。
子供達に食べさせながら、こぼれたご飯をつまんだだけでお腹はいっぱいでした。
この時は食欲というものをほとんど感じませんでした。
しばらくして上の子は後ろの座席で、下の子は私にだっこしたまま眠ってしまいました。
童謡やジブリの音楽をかけていたオーディオをラジオに切り替えましたが、山沿いの道で電波状況が悪く、聞き取れません。
携帯の電波はきまぐれて…でも時々、メールの受信やネットにつながることがありました。
まずしたのは、原子力安全保安院のメールサービス登録でした。何よりも情報が欲しかったのです。
次に妹の携帯を使って、東京電力と、妹の旦那からのメッセージを伝えてくれた番号にかけ続けました。
コール音はならず、つながりません。
車はいわきに近付いていて、ガソリンスタンドが見えました。誰も並んでいません。
やっていないのか…
そう思って通りすぎると従業員の姿が見えました。
営業していたのです。
そこをすぎてしばらく行くと、ラーメンやさんがありました。
店の中には家族連れの姿がありました。あまりにも普通の姿に私たちは少し呆然としていました。
「夢かな?…ただ用事があっていわきに向かってるみたいじゃない?」
妹と話しました。
「…夢だったらホントに良かったよね」
それからしばらくして、車はいわき市に入りました。
店は普通に開店しています。浪江にもあったコメリというホームセンターに入りました。
レジに並んでいたのは市内の方がほとんどで、セメント用の砂や、水を入れるポリ容器がよく売れていました。家の補修に使うのでしょう。
確実に町は動いていて、私たちは茫然自失。
何かにだまされているような気持ちで、ちょっとの買い物にすごく時間がかかりました。
購入したのは、歯みがき粉、歯ブラシ、化粧水、洗顔フォーム、タオルです。
このとき、私は自宅にいたときに着ていたユニクロのスウェット姿でした。着替えはひとつも持っていませんでした。化粧もしていません。お店の自動ドアに映る自分の姿を見て、ちょっとひどいな…と思いました。父は家で片付けをするために、震災当日仕事で着ていたツナギ姿。母はやはり仕事用のジャージ。
叔母の家に向かう途中、道路は本当に地震があったのかと思うくらいにきれいで亀裂もありませんでした。
叔母の家に着くとそこには先客がありました。
富岡の親戚のご夫妻です。同じく原発の避難で、町を出て避難所で一夜を過ごし、更に避難するように言われて、叔母の家を頼ってきていたのです。
私達5人には八畳の和室を用意してくれていて、私たちは荷物を運び入れて、ほっとしました。これで少し落ち着くことが出来ると思ったのです。
いわきの叔母の家に、荷物を運び入れて、お茶を出されてようやく座ると、私達はテレビのニュースに釘付けになりました。
1号機が水素爆発を起こした後から、原発周囲の放射線量モニタリングが行われていて、数値が発表されていました。
でも、その数値は数時間前のものが最新でした。
シーベルトって何?
マイクロ、ミリってどう違うの?
放射線の単位、医療で使う量との比較が詳しく解説されていました。
1号機、3号機には海水が注入されていて、2号機も圧力が上がっている。
予断は許されない状況でしたが、爆発の後、放射線量は一時的に高くなって、その後は徐々に下がっていて原子炉の状態は安定してきている。そういうニュースが続いていました。
良かった。
このまま落ち着いてくれれば近いうちに帰れるかもしれない。
そう思いました。
原発事故以外には津波のニュースばかりが続いていて、叔母が少し頭と目を休めなさいと言ってテレビを消しました。
自然と話はそれぞれの家族がどう過ごしていたかという話になりました。
富岡の親戚は、震災当日川内村に避難するように言われて、やはり着の身着のまま、すぐに帰ることが出来ると思って避難したそうです。
寒い体育館で一夜を過ごすと次は川内村も避難区域に入ってしまいました。
そこで、いわきを頼って避難することにしたが、道路は凍結していて、地割れで道路は寸断されていて、カーナビに頼って何とかたどり着いたというのです。
二人とも疲れきっているように見えました。
いわきはいわきで、震災以来断水が続いていました。飲み水は近くの浄水場で長い行列に並んで、家中のありとあらゆる容器に汲んできて使っていました。
電気やガスは大丈夫だったのですが、放射線の影響でエアコンは使わないようにテレビで言われていたこともあり、暖房は灯油のファンヒーターを使用していました。
最近、灯油を配達してもらったばかりということで、灯油はたっぷりありました。でも、どのくらいで灯油が正常に供給されるか分からないので、節約のため温度設定を18度にしていました。
トイレは水が使えないので、使用した後はバケツで水を流していました。そのための水は近くの川から汲んできてお風呂にためてありました。
手を洗うことはできなかったので、アルコールジェルとウェットティッシュを使用していました。
それでも、明るく、壊れていない家で布団を敷いて足を伸ばして眠れる状態に、私達は本当にほっとしていました。
しばらくはここで落ち着いて暮らすことが出来ると思っていました。
叔母と従姉が用意してくれた夕飯をいただいて、私は家族が眠るための布団を敷くために二階の部屋に上がりました。
布団を敷いて、あとは寝るだけと思ったら、ここで不意に涙が止まらなくなってしまいました。後から後から、涙がこぼれてきて、止まりません。
ほっとしたら、置いてきてしまった動物のことを思い出してしまったのです。
家の中に置いてきてしまった犬には、餌も水も1日分しかありません。
猫の餌も山盛りにしてきたけど、数日持てばいいくらいの量でした。
そして、残りの二匹の犬は繋いだままです。
そのことは考えないように、考えないようにしてきました。考えてもどうしようもない。
津波に流された家の人のことを思えば、命があるだけでありがたいことだ。
諦めないといけない。
心の中でずっと、さよならをしなければいけないと、そう思っていました。
今は人間が生きるために諦めないといけない。
子供たちが無事だっただけで良かった。子供を守らないといけないと、そう思い続けていたのが、ほっと一息つける状況になって気持ちがゆるんでしまったのだと思います。
心の中にぽっかりと黒い穴が開いたような気がしました。
その穴を甥っ子姪っ子で塞いでいたのが、外れてしまいました。
考えないように、
思い出さないようにしようとしても、
自然と動物たちが飢え乾きに苦しんでいる姿が思い浮かんでしまいます。
なんとか、家の中から逃げ出してくれているといい。続いていた余震で家が崩れたり、壊れたりして下敷きになってはいないだろうか?
誰も帰ってこない暗い家にたたずむ猫の姿を考えるだけで辛くて…
悲しくて…
どうしてもっと強く、連れていきたいと言わなかったのか…
どうして、つないだままにしてきたのか…
避難指示が拡大されたときに一度戻れば良かった…(実際には警察の検問に阻まれて、戻ることはできない状況でした)
そんな後悔ばかりが頭をよぎります。
しばらくして、戻らない私を心配した母と妹が上がってきました。
泣いている私を見て、
「泣かないで…」
妹が抱きついて言いました。
「ずっと我慢してるのはわかってたんだ。犬のこと考えてるんだろ?昨日も眠ってなかったし…大丈夫だから。津波で流された訳じゃない。生きてるんだから」
母が言いました。
「泣きたいときは泣いたっていいんだから」
「泣きたいだけ泣いたらいい」
声をあげて泣きました。
妹も大事な猫たちを二匹、地盤が半分なくなった家の中に置いてきています。
母も可愛がって毎晩一緒に眠っていた猫がいました。
辛いのは私だけじゃない。分かっていても、なかなか涙は止まりませんでした。
しばらくそうして泣いた後、私は階下に降りました。思い切り泣いて、少し気持ちは落ち着いていました。
私がそうして泣いていた間に、いわきに住む親戚が叔母の家に訪れていました。
その人はいわき市内のデパートに勤めていて、今日も仕事帰りに来てくれたのだそうです。
そして、私達が必要とする品物を買ってきてくれるというのです。
私達は、それぞれの肌着と子供の紙オムツをお願いしました。
その方の家ではすでに水も復旧していて、洗濯ができるというので、子供たちの服を洗ってもらうことになりました。子供の服はどんなに注意していても汚れてしまいます。着替えも2、3枚しかない状態でした。
また、従姉は自宅から自分や旦那さんのTシャツや、子供たちの古着を持ってきてくれました。
従姉の子供たちは4歳と7歳の男の子です。
それから、翌日の打ち合わせをしました。
急に人数が増えたので食材や水など必要なものが多かったのです。
私と妹は、従姉の家で子供たち4人の世話。
富岡の夫妻のうち、旦那さんはからだの調子がよくないので電話番。
奥さんと叔母とうちの母は食材の買い出し。
従姉と父は水を汲みに行く。
従姉の旦那さんと、叔父は仕事です。
おおまかにそんな話をして、その晩は休むことになりました。
ヤカンでお湯を沸かして、水でちょうどいい温度にして、子供たちの体を拭いて、自分達は歯磨きをして顔を洗って休みました。
前の晩眠っていなかったこともあって、私はすぐに眠ってしまいました。
避難当時の話は、これでおしまいです。
続きを書くことも出来ますが、つらくてできないのです。
それに、時間がたちすぎていて、記憶があいまいな部分もありますし、思い違いをしているかもしれません。
震災当時の避難がどんな状況だったのか・・・
すこしでも知っていただけたらと思います。
お読みいただきありがとうございました。
次回からはいつもの猫ブログに戻ります。
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