4年前のこと②3月12日

震災当日・・・
私たち家族にあった、情報は
大きな地震が広範囲で起きたこと。
想像できないような津波が来ているらしい。
原発は安全に緊急停止した。
でした。

情報源は電池式ラジオと、町の災害広報だけで・・・
あとは実際に見た人から伝え聞いた話ばかりでした。
携帯の充電も出来ず、ネットにもつながりませんでした。

そんな震災二日目に、初めて、私たちは原発に異常が起きているかもしれない・・・と知ったのです。

興味のある方だけ、お読みください。
写真はありません。長い文章です。

3月12日
朝が来ました。
犬は私の腕の中に、昨夜はなかなか家の中に入ってこなかった猫は足元に丸くなって眠っていました。
いつもと同じように日差しが差し込んでいて、昨夜は暗くてよくわからなかった部屋の様子が分かるようになった。余震は続いていたけれど、朝日を見て、私は良かったと思いました。
被害はあったけど、みんな無事だし、家もある。
暮らしていくことは出来ると、そう思いました。

でも、それは大きな間違いだったのです。

室内の植木鉢は倒れて、土だらけ…誕生日にもらったシクラメンはしおれている。とりあえず、シクラメンの鉢を立て直して、部屋の中を片付けようと思った。壁面に設置していた棚が崩れて、化粧品がどこにあるかわからない。DVDや本が棚から落ちて散乱している。
割れたガラスの欠片もあったが、それがもともと何のガラスなのかわかりませんでした。
応急的に必要になるだろうと考えたものは、薬、ウェットティッシュ、甘いお菓子。
停電が続いていて、冷蔵庫が止まってしまっていたので、中に入れてあったゼロカロリーペプシとC.C.Lemonを取り出しました。
そんなことをしているとき、階下から声が聞こえてきました。
『おはようございます。よく聞いてくださいよ。ここは原発から10キロで避難対象の地域になります。苅野小学校か津島に避難してください。ちゃんと言いましたからね!』
近所に住んでいる役場の職員の人でした。

頭に浮かんだのはどうして?なんで避難しなきゃいけないの?
昨夜のラジオのニュースでは福島第一原発、第二原発ともに、自動停止したということで、3キロ圏内の人は屋内退避という話だったのに…
母や妹が質問する余裕もなく、その人は立ち去っていきました。

妹の夫は、福島第一原発の3、4号機中央制御室に勤務していました。地震のその時、そこにいたはずなのです。
携帯電話も通じず、固定電話だけが唯一の通信手段でした。
まだ、義弟からは何の連絡もありません。

階下に降りていくと、父と母は割れてめちゃくちゃになった食器や屋根瓦の片付けをしていました。
『なに?今の話。どういうことなの?』
『わかんない。とりあえず、避難ってことなんじゃない?』
『どうする?避難するの?』
『どうしようか?』

そんな話をしている最中に、前の家の家族が一台の車に乗り込んで出発していくのが見えました。飼い犬はリードをはずされて、飼い主の出発を見ていました。

『前の家、避難したね。』

家族で話し合っても結論がでなくて、父が近所の話を聞きに行くことにしました。私たちは、避難にそなえて準備を始めました。
避難所というもののおぼろげな知識を元に、保存食や毛布、果物など、家の中の食料を車に積み込み始めました。飲料水は烏龍茶が少しと私のジュース類だけでした。
妹がラップがあると便利だと言うので、ラップや袋類をまとめて袋に入れました。

父が帰ってきました。
とりあえずの避難だということらしいという話です。近所の酪農家の方は、牛の世話をしてから、小学校に行くということで、私たちもそこに行ってみることにしました。
とりあえずの避難なら、すぐ戻ってこられるだろう。夜は家に戻って寝てもいいだろうし…
避難所に行けば新しい情報もあるかもしれないし…


そんな風に考えていました。

その時、活きていたのはガスだけだったので、フライパンに卵をやいて、炊飯ジャーに残って冷たかったご飯を炒めて、醤油をたらしてご飯にしました。
ちびっこ達ももりもり食べていました。


そして、出発するとき、動物たちをどうするか?という話になりました。
犬は放せばどこに行ってしまうか分からないし、すぐに帰ってこられるだろうから…と、つないだまま、多目の餌と水を与えました。

猫は怖がって家の中に入らないので、外に餌を山盛りにしました。

鴨と鶏とウコッケイは庭に放して、餌を撒きました。

室内犬は…
連れていきたいと言ったら、避難所で他の人の迷惑になるから、置いていくように言われ、室内にいつも通り、餌と水を与えて、
『お留守番ね!』
と言い聞かせました。
それまで、私のそばを離れたがらず、きゅーんきゅーんと鳴いてばかりだった犬は、その言葉でお座りをして、私の顔をじっと見ていました。
私の部屋からは出られないように普段から柵をしてあるので、そのまま出掛けました。

家の鍵をかけてしまうと、猫は家に入れなくなってしまうので、かけずに出掛けました。

本当にこのときはすぐに帰ることができる。と、そう考えて疑いもしなかったのです。

苅野小学校に向かおうと2台の車に別れて乗り込みました。
父と母がデュエット、私と妹、子供たちがオデッセイです。
ところが、町の中央を貫く114号線は長い渋滞になっていたのです。避難する人々でしょう。みんな、たくさんの荷物を積んでいます。渋滞を避けて、裏道を抜けてたどり着いた苅野小学校はすでに人がいっぱいでした。
体育館は人の入る隙間のないくらい、あぶれた人達は駐車場の車の中で思い思いに過ごしています。

避難者名簿に記入を呼び掛ける町の職員の姿が見えましたが、人垣で近付くことも出来ません。情報を聞いても、みんな、状況が分からず避難してきた人ばかりです。
命からがら、津波から逃れて着の身着のままの人も少なくありません。断水で水が止まり、電気も避難所でさえディーゼルの自家発電機を使用している状態でした。
苅野小学校は校舎の屋根に太陽光発電のパネルがあり、発電した電力も使用している学校でしたが、皮肉なことに、地震で壊れてしまったそうです。


私たちも車の中で過ごすことにして、ラジオを聞いていると、原発のニュースが聞こえてきました。原子炉の圧力が上がっているので、放射能を含む水蒸気を放出するというのです。
そのための避難だったのか…と納得はしたのですが、どうしてそんな状態になっているのか、それがどんなことをあらわしているのかさっぱりわかりません。

恥ずかしいことに、私は原発立地地域の近隣に住んでいたのに、自宅が原発から10キロであることも、原子力発電所がどんなふうに発電しているのかも知りませんでした。
漠然と危険性はあるものだが、安全確保はきちんと行われているものだから大丈夫と思っていました。
そして、こんなことになる前、『もし原発で事故が起きたら、逃げる暇などなくて死ぬのだろう。だから、焦っても仕方ないし、死ぬときはみんな一緒』と思っていました。


だから、水蒸気を放出すると言われても何のことかわからなかったのです。
でも、ラジオから『出来るだけ室内にいてください。外出するときはマスクを』と流れてきます。マスクなんかありません。
そして、町内は避難のため開いている店もなく、ガソリンさえも入れられない状態になっていました。

とりあえず、子供たちを被曝させてはいけないと車に閉じ籠ったのですが、小さい子供に理解できるはずもなく…ストレスから泣いたりぐずったりが増えてきました。
車から出るのはトイレの時だけ。
トイレは小学校に隣接する保育園のものを借りました。なぜか、こちらだけは水が出ていたのです。


そんなこんなで、車の中にいると、そのうちに目を疑うような光景が見られるようになってきました。
護送車のように鉄製の窓枠がついたバスや普通のバスがどんどん小学校に入ってきたのです。
降りてくるのは隣町の、双葉町民でした。私たちと同じように毛布を抱えています。
異様だったのは、誘導やバスの運転をする人達の姿です。全身を覆う白いカッパのような素材の服。顔にはゴーグルのついた防毒マスクを着けているのです。
双葉町民は何台ものバスに乗ってやってきました。
そして、小学校の隣の保育園に入っていきます。

双葉はもうダメだから、避難してきたのかな?
と思いました。と、その時、双葉町の役場に勤める知り合いを見つけました。
少しでも、情報を知りたくて話しかけてみました。

すると、双葉地区は全部避難地域に入った。これから川俣町に移動する用意をしている。
ということでした。
原発はかなりヤバイ状態にあるということも聞きましたが、その人も、何がどうヤバイのかは分からないといっていました。

双葉町が川俣に移動すると聞いても、私は事態の深刻さが飲み込めず、単に収容人数の関係で川俣に行くのだろうと思っていました。


次にやってきたのは東電の職員たちでした。
事態の説明などではなく、原子炉に関わらない事務職員や関連会社の社員が避難してきたのです。

妹の夫のことが気になって、たくさんの社員に話を聞いてみましたが、みんな詳しい事情は分からず、義弟を知っている人もいませんでした。
ただ、もう相当に危ない状態であることは間違いないようでした。
話を聞いた人も関連企業に出張にきていた関東の人もいて、帰りたいけど帰ることも出来なかったそうです。とりあえず、危険な地域からは脱出させるということで、浪江と楢葉方面にバラバラに逃げたということでした。


そんな話をしているうちに初めての配給がありました。
牛乳コップ一杯。
チーズ一欠片。
食パン一枚。

一人あたりにこれらがくばられました。
その頃になってようやく、避難者名簿に名前を書くことができました。

役場の職員に話をきくと、難しい状況が続いているのは間違いなく、本部との通信手段もなく、連絡や情報が入らないので困っているといっていました。
この方は直接、役場の本部に行って状況を聞いたけれど、東電や国からはなんの情報も入らないといっていました。

携帯電話はDOCOMOは圏外。auは電波はあるが、つながらない、メールも確認出来ない状態が続いていました。

事態が動いたのは午後になってからでした。
昼を過ぎると、昼食と休憩を終えた双葉町民が川俣に向けてバスで出発していきました。大型の観光バスです。
浪江町が使っていたのは小型の役場や町の施設用のマイクロバスでした。



正確な時刻は覚えていませんが、14時頃だったと思います。

突然、メガホンを持った東北電力(東京電力ではありません)職員がやってきて、『屋内退避指示が出ました。車から出て移動してください。小学校校舎を開放しますので、そちらに移動してください』と呼び掛けています。
この時、母と妹、ちびっこ達は丁度、気晴らしも兼ねて保育園のトイレに出掛けていました。

風も少し南東から北西にむけて吹いていましたが、暖かい日差しが出ていたので、外で過ごしていた人も多くいました。
メガホンで呼び掛けながら、一台一台、中にいる人に声をかけています。

何かあったのかな?
と思いながらも、対応に追われる社員には聞けず、父に話して毛布を持って校舎に移動しました。
そこでなら、何か説明があるものだとも思っていました。

この時、甥っ子は保育園で金魚をさわってしまい、手を洗いたかったようなのですが、午前には出ていた水が止まり、トイレも流れなくなっていたそうです。
体育館の入り口では、役場職員が早く中に入るように促しながら強引に体育館の扉を閉めようとしていました。
母は体育館の入り口でおにぎりとサラダを配る列に並んでいました。

『なにやってるんだ!とにかく中に入って!』
役場職員の叱責するような大声が聞こえてきます。

私達家族は追いたてられるようにして、校舎の中に入っていきました。
校舎内には前日の地震を思わせる壊れたプリンターや倒れた棚がありました。コンクリート造りの校内はひんやりとして寒かったのを覚えています。

母がまだ、体育館から戻りません。ばらばらになってしまっても困るので、父が探しに行って、私と妹は子供たちと空いている教室に入りました。

しかし、いつまで待っても母は戻らないし、子供たちは寒い校舎内に驚いたのか泣き出して、泣き止みません。
必死にあやしながら体育館の方を見ていると、避難してきていた東電社員が走っていくのが見えました。
慌てた素振りで、走って行くその後ろ姿を不安に思いながら、私は抱いている姪をあやしていました。

『バスが出るらしい』
そんな話も聞こえてきて、何人かの町民も校舎を出ていきました。


そして、しばらくすると町民は戻ってきました。
『(東電)社員以外は乗せられないって…』
『年寄りくらい乗せてくれればいいのに』
『川俣に行くんだって』


ラジオを置いてきてしまったので何が起きているのか分かりませんでした。
でも、東電社員の焦った様子に不安がよぎります。

父と母は戻りません。
体育館の方に行こうとすると止められます。

子供たちも、私と妹の不安が伝わったのか、不安げです。
『ばーば、どこ行ったの?Nも行きたいー』
甥っ子が言います。
ばーばはご飯貰いに行ったんだよ、と話しても、甥っ子は外に出て遊びたくて仕方がないようです。


それからしばらくして、校舎の入り口をうろうろしていると、父母の姿が見えました。小さな容器とおにぎりの入った袋を持っています。

良かった。

そう思ったのもつかの間、誰かが叫ぶのが聞こえました。
『避難してー!とにかく津島とか西の方に避難して!』

え?
と思って見ると、線量計と無線機を手にした東北電力職員でした。
慌て、パニック状態になりながらも、早く逃げないと渋滞になる。
そう思いました。
浪江から西の方向、津島地区や川俣町へのルートは一本だからです。


車まで向かう間に母の持ってきた温かいおにぎりに、姪が食べたいと騒ぎ出しました。
開けて食べさせようとしたら、
『開けんな!』
と父に強い口調で言われました。反論すると、放射能が付くからだと言われました。
体育館の方では強い放射能が出ていると説明があったようでした。

車に乗り込んで、急いで出発します。次々と走り出していく車の列を避けて、裏道を行く父の車に付いていきながら、ラジオに耳をすませました。

そこで、私達は東電の福島第一原発で爆発があったことを知りました。

頭の中が真っ白になって、この時、何を考えたかよく覚えていません。
妹も同じで、はしゃぎ騒ぐ子供たちをしかりつけます。ラジオが聞こえないからです。
10キロ圏内だった避難指示が20キロに拡大されたのを知ったのはもっと後になってからでした。


やがて、車は長い渋滞につかまりました。どこまでも続く渋滞の中、救急車や緊急車両がサイレンを鳴らしながら、対向車線を走っていきます。
対向車線を浪江町の方向へ走る車には
『この先は立ち入り禁止です。危険です。引き返してください』
と、パトカーが呼び掛けます。私達のわずか数台後ろがパトカーだったので、この警告が何度も何度も繰り返されるのを聞きました。

漠然と、もう帰れないんだと思いました。
大切なものは全て置いてきてしまいました。

大事な書類も、大事な思い出も、大切な動物たちも。特に、室内に置いてきた犬のコタロウの眼差しが頭に浮かびました。
水はどう考えても一日分、餌も少ししか与えてありませんでした。
泣いても、考えても、何の足しにもなりません。誰も泣いてないのに私が泣いてどうする!
皆が不安になるだけだ。
そう自分に言い聞かせました。
考えたって仕方ない。
今は無事に生きることが優先だ!
無理やり、そう思いました。

コタロウのことは考えないように、考えないようにしました。
代わりに、甥っ子達子供をどう守るか、そればかり考えていました。


長い長い進まない渋滞の中で、妹の車のガソリンは残り半分を切っていました。川俣を越えて、福島市に行けるぎりぎりの量です。
父の車は幸いに満タンにしたばかりでした。

このまま渋滞が続いたら、途中でガス欠になってしまうかもしれない。
津島に行ってもガソリンスタンドはひとつしかありません。

焦りばかりが頭を支配して、不安感で寒気のような、髪の毛が逆立つような状態が続いていました。

迂回路を求めて、旧道に入ってみましたが、雪が固まった固いアイスバーンの道に、引き返さざるを得ませんでした。

そして、じりじりとしか進まない理由がやっと分かりました。
避難所である津島小学校、中学校、津島活性化センターが満員で入れない状態だったのです。

私達はその夜、津島の親戚の家に泊めてもらうことにして、そこに向かいました。
浪江を出発したのが15時頃、着いたのは20時に近かったと思います。
通常なら40分かからない距離です。

津島の親戚の家に着きました。

驚いたことに断水しておらず、電気もついています。室内はストーブとこたつで温かく、親戚一家は夕飯の最中でした。
夕飯は焼き肉です。
朝、川俣のスーパーで買い物をしてきたのだそうです。その時、ガソリンも車に満タンにしてきたという話でした。

津島のガソリンスタンドは既に閉まっていました。
昼間に既にガソリンを求める人が殺到して、早々に地元地区以外の人には給油させないようにしたという話でした。
もしかしたら、ここでガソリンを入れられるかも知れないという淡い期待は外れてしまいました。

浪江町の殆どの地域は避難指示区域になって、2万人に近い住民が避難しようとしていました。

お世話になったお宅は、30キロ圏内から少し離れた地域でした。
屋根瓦が落ちたり、家の中はめちゃくちゃになっていましたが、建物はしっかり建っていましたし、家族も無事でした。

私達家族はここで、震災以来初めて、テレビを見ました。
宮城県や岩手県を襲った津波の映像と、福島第一原発の状態を伝える報道が延々と繰り返されていました。
どのチャンネルを見ても、黒い水がごうごうと流れる津波、原発一号機の建屋が壊れた姿を遠くから写した画像、原発の仕組みと今回の事故を解説する専門家、原子力安全保安院の会見、東電の会見と質問攻めにする記者たちの映像ばかりでした。
初めて目にするものに、私達家族は無言でした。
呆然としていたというのが正しいかもしれません。

『原発はもうダメだな。中にいる人なんか被曝してっぺ。ここは山から海に向かって風が吹くから安全だけどな。ここがダメだとなったら、会津にでも逃げなきゃダメだな』
父の従兄弟がそんなことを言います。
妹の夫が3号機にいることを話しても、冗談めかして『あー、じゃあもう帰ってこないんじゃないか』などと言います。


避難してきて、お世話になっている身ではありましたが、その意識の違いに怒りを感じました。
ご飯を出されても、肉が焼けたから食べろと言われても、何も口にする気になれませんでした。
朝、自宅で食べた卵焼きご飯の後は母が剥いたリンゴ、牛乳しか口にしていませんでしたが、お腹は空きませんでした。
子供たちは避難所でもらった食パン、チーズ、おにぎりを食べてお腹がいっぱいだったのか、サラダのトマトばかり食べていました。

ありがたいことにお風呂まで入れてもらって、用意していただいた布団に皆で横になりましたが、眠れません。
妹は夫の身を案じて、恐慌状態だったので、気持ちを落ち着かせるためと眠らせるために、母の常用している精神安定剤を飲ませました。
このころになると、気まぐれのように携帯の電波が通じるようになって、友人からメールが入ったりしていましたが、安定してメールを送ったり、ネットにつながる状態ではありませんでした。

行動を別にしていた末妹とは連絡が取れず、電話も通じませんでした。

原発にいる義弟からは、『後輩の携帯を借りている。子供たちは大丈夫か?』
というショートメールが入ったきりでした。生きてはいる。
でも、妹が送った返信に返事はありませんでした。
ショートメールに記載された番号に電話をかけても繋がりません。
東電の電話も繋がらないし、義弟の同僚の電話も通じませんでした。


私は一度は布団に入ったのですが、眠ることはできませんでした。
静かになってしまうと、これからどうしたらいいのかという不安と、犬たちのことが頭に浮かんで、どうしていいのかわからなかったのです。
深夜になっても、テレビは繰り返し災害関連ニュースを流していました。
テレビをつけて、ずーっと見つめていました。どんな些細なことでもいいから情報がほしかったのです。
テレビのニュースでは関東地区が中心で、放射能の影響についても東京は安全かどうかが議論されています。

私達はどうなるのだろう?避難はいつまで続くのか?知りたい情報は得られませんでしたが、原発の仕組みについては知ることができました。
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コメント

No title

大事なお話をありがとうございます。
ボンママさんの辛いご経験を無駄にしないよう
防災と支援を続けたいと思います。

多くのみなさんに読んでいただきたいと思い、
拙ブログにリンクいただきました。

Re: No title

> ミドリさん
長い長い文章を読んでくださり、ありがとうございます。
リンクしていただいたおかげで、いつもよりたくさんの方に読んでいただけたようです。
尻切れトンボの中途半端な文章で、なんだか申し訳ないです。
Secret

プロフィール

ボンママ

Author:ボンママ
ねこだいすき。
なぜか飼っているのは犬。
石とか貝とか植物もすき。
海外ドラマ好き。

※当ブログはリンクフリーです※

お問い合わせは、
inunoossann.
nekodaisuki
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もうちょっと知りたいそこんとこ。
などなど・・・
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南相馬市にある被災猫シェルターです。 福島県原発被災地の猫のレスキュー、家族さがし、里親募集をしています。 多くの方に支えられて、活動を続けています。

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