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4年前のこと。

震災のあの日から・・・
今日で、4年がたちます。

私の家は、「避難解除準備区域」という呼称で区分けされている場所で。
4年経つ今、町の許可があれば自由に出入りができますが、住むことはできません。

除染はこれから始まる予定。
広大な地域を除染し、避難解除できる日がくるのはいつになるのでしょう。

4年前のあの日、何があったのか、私の視点で書きとめたものがあります。

あのときまで・・・
1
浪江町に住んでいたゾロも。

2
原発近くの双葉町に住んでいたくまちゃんも。

想像もしていなかったような大地震でした。
続いて襲ってきた津波も。
原発事故も。

当時、ミクシィの日記にあげていた、3月11日の状況をつづったものです。
興味のある方はご覧ください。
(長いです。写真はありません)

震災当時、私は、双葉町の内陸にある小さなクリニックに看護師として勤務していました。
医師1名、看護師3名、医療事務員3名のクリニックで、当時は花粉症の患者さんが多く訪れ、毎日のように残業がつづいていました。
私は車の免許も持っていませんでしたので、電車や徒歩で職場まで通っていました。



3月11日
今日はいつも通り、混むんだろうなぁ…ちょっとうんざりするような気分で待合室の喧騒を聞いていました。
午後の診察の準備に、滅菌した機材をそろえたり、消毒薬を準備して、あとは先生が来れば、診察開始という時間でした。
先生が、二階の自室から降りてきて、「よろしくお願いします」と挨拶を交わした、その瞬間でした。
ぐらぐらと大きな横揺れを感じました。
待合室の方からも「地震!」という声が聞こえました。
「大きいね」
「長いですね」
最初はそんな言葉を交わす余裕がありました。
一週間ほど前に起きた、宮城県沖地震の余震かな?と私は思いました。

ワイングラスのワインを揺らすみたいな、大きな横揺れが直ぐに、お風呂を乱暴にかき混ぜているみたいな雑な揺れになって、どーんと大きな衝撃がしました。
「きゃー!!」
「ママー!」
待合室からの声が聞こえたけれど、誰も動くことができませんでした。
ちゃぷちゃぷと揺れて床にこぼれる消毒薬を押さえたり、落ちてきそうな重いものを支えた姿勢のまま、最大の揺れがやってきました。

「きゃー!」
自分の口から思っても見なかった悲鳴がもれました。激しい横揺れで、カルテの棚の下敷きになる事務員の姿がスローモーションのように見えました。
上から落ちてきた植木鉢がバリンと音をたてて割れながら、ぶつかってきました。
避けることも動くこともできないその長い時間が終わってみると、あたりは一変していました。
重たくて、大人二人でも動かすことのできない機材が数メートルもずれています。水が入っていた容器は空っぽで、床は水浸し。
レントゲン室が大きくずれて、機材もみんな倒れています。
トイレはタイルが剥がれ落ち、向かいのお宅は屋根瓦が全て落ちていました。
もうもうと土煙が立ち上る中、待合室に行くと、お母さん達は子供を抱き締めてしゃがんだまま、逃げられた人は外から様子をうかがっていました。

「大丈夫ですか?怪我をされた方はいませんか?」

先輩がそう、声をかけるのを聞いて、私は初めて我にかえりました。
待合室にいた患者さん、ひとりひとりに声をかけていると、自宅や二階を見に行った先生が戻ってきました。

「今日はもう診療できないので帰ってください」
そう呼び掛けているのを聞いて、保険証を返したり、落ちている荷物を持ち主に返したりしました。
事務員にも、幸いケガはなくてひと安心したところで、気づきました。
近所の無人だった二階建て家屋が完全に倒壊し、道路を完全にふさいでいました。
「道路が通れない。どうやって帰ろう」
患者さんのそんな声も聞こえました。
でも、その時、私たちは家に帰るなんて思いもよらなくて、めちゃくちゃになった診察室をどうやって片付けるかを考えていました。

頭の片隅に、家族の安否や自宅はどうなっただろうかという思いはあったのですが、すでに携帯は通じない状態でした。
びしゃびしゃになった床を雑巾でふきながら、片付けをしていて、あたりをよく見るとベッドから検査室、薬剤の棚まで全てめちゃくちゃの状態であることがわかりました。
その時、防災無線から聞こえてきたのは「大津波警報が発令されました。○○地区の住民は高台に避難してください」という放送。
そりゃあ、これだけ大きい地震なら津波も来るよね。と思いながら、片付けを続けていました。

その時、私を心配して友人のMさんが来てくれたのです。
「会社から直ぐに帰宅するように指示が出ました。国道はアスファルトがぐにゃぐにゃでもう通れないですよ。早く帰った方がいいです」
「本当にあぶないから、早く帰ったほうが良いよ!」
友人は、車の免許を持たない私を一緒に連れて帰ってくれようとしましたが、職場の責任者の医師からは、帰っていいという話はなくて・・・
先生も、途方に暮れてどうしていいか分からない。
そんなふうに見えました。

その後も、先生から帰って良いという話はなくて、私はこれは大事になったなぁ…と思いながらも、片付けを続けていたのです。
次の瞬間、
「大津波警報が発令されました。〇〇地区の方は至急、高台に避難してください」
聞こえてきた放送に耳を疑いました。
告げられている住所は、クリニックのある場所。
クリニックは海から5キロ近く内陸なのです。そんな場所に避難指示が出るなんて、予想もしていなかったのです。
これにはさすがに先生も焦ったようで、早く避難するように言いました。
着替えようとする合間にもけたたましいサイレンと消防車が海の方に向かっていく音が聞こえていました。

なかばパニック状態になった私たちは、バッグに着替えと、控室のテーブルにあったおやつのお菓子を詰め込んで、避難場所である中学校に走りました。
そして、亀裂が入り、隆起して車が通れない状態の道路に愕然としたのです。
中学校はその日、卒業式で、生徒の姿は少なく、避難してきたひとも体育館などには入らず、様子を見守っているようでした。
見晴らしの良い坂の上から海の方を見ると、海岸の松林よりはるかに高い波が打ち寄せてきているのが見えました。

それでもまだ、大きな被害が出ているようには見えなかったので、このときは「また、大袈裟な警報が出たんだな」と思っていました。

私たちはクリニックに引き返し、車で自宅を目指すことにしました。

さて、家に帰ろうと思ったところで、私は車の免許を持っていません。
もちろん、電車は動いていませんし、徒歩で帰るのも平常時ならともかく、この状態ではちょっとこまりものです。
そこで、同じく浪江町方面に向かう同僚の車に同乗させて頂くことになりました。

勤務先の双葉町から浪江町に帰るルートは大まかに4本、あります。
国道6号線…ここは友人Mさんの話だと通れません。
次に浜街道と呼ばれる海辺の道。ここも津波がくるので通れません。
次に旧国道と呼ばれるルートです。ここなら、通れるのではないかと進んでみると、倒壊した家屋で通ることが出来ない箇所に差し掛かりました。

残るルートは山沿いの、通称さんろく線です。
東電や関連企業から自宅へ向かう人達で、すでに道路は長い渋滞になっていました。
私も同僚も、さんろく線はよく分からなくて、前の車が向かうところにひたすらついていきました。
道路は大きく亀裂がはいってひび割れ、橋があるところは橋とアスファルトの繋ぎ目が外れたり隆起したり…まともに通れる道はほとんどありませんでした。
大きく迂回したり、みんなで陥没にはまった車を助けたりしながら、進んでいきました。
電柱が倒れたり、送電線が垂れ下がったりしていて、今更ながらに地震の規模の大きさを理解し始めました。
途中で通った、JR常磐線双葉駅は、中学校に通じる歩道橋があるのですが、それは地震によって崩落していました。


普段なら15分もかからないような道を、2時間くらいかけて、ようやく浪江町にたどり着きました。
「気を付けてね!」
と声を掛け合い、同僚の車を降りました。
目的地は母の勤務先の浪江町社会福祉協議会事務所です。
そちらを目指して歩いていくと、防災無線が聞こえてきました。
「ただ今、大津波警報が発令されています。海岸付近の方は至急避難してください。津波は東中学校まで到達しています。すぐに避難してください」

耳を疑う内容でした。
東中学校というのは私の母校です。しかし、海からは5キロも離れているのです。
我が家は高台にありますが、そんな大きな津波ではダメかもしれない…
流されて、もうなくなっていてもおかしくありません。
急いで、母の勤務先に行きました。白衣の上からコートを羽織っただけの格好でしたが、それを気にしている余裕はありませんでした。
携帯の表示はずっと圏外。公衆電話なんてどこにもありません。

やっとのことでたどり着いたそこには、母の同僚の方が数人残っていました。
母の行方を聞くと、父と自宅へ戻ったということでした。
また、津波の話を聞くと
「請戸はもう、何にもない。津波で全部流されたって…」
請戸は海沿いの漁港のある集落です。小学校やプラネタリウムなどの町の施設もありました。

愕然とした思いで、私は自宅へ帰ることしか考えていませんでした。そこから自宅までは5キロくらいありました。
次に向かったのは末妹の勤務先の警察署でした。
町中は倒壊した家屋や停電で混乱していて、警察官が誘導していました。
海の方向へ向かおうとする車は全て引き返すように言われています。
私は徒歩だったので、止められることもなく警察署にたどり着きました。

入り口近くはざわついていて、人だかりになっていました。
その中に妹の姿を見つけることができて、ほっとしました。
妹は父と連絡が取れていて、自宅も無事だと教えてくれました。でも、あぶないから…と、近くの避難所に行くように勧めてくれました。

でも、この時の私は家に帰ることしか考えていなくて、警察の検問に引っ掛からないルートを通って帰ることを選択しました。
強情な私に妹は自転車を貸してくれました。

白衣にコートの異様な姿で必死に自転車をこぎました。津波の被害は及ばないところを通って、家に向かうと、やはり地割れや停電はしていましたが、見慣れた風景にほっとしました。
自宅につくと、父と母、甥っ子、姪っ子が車の中にいました。
強い余震が続いていたので、家の中には入れなかったのです。
ところが、妹の姿がありません。半壊した自分の家に荷物を取りにいって戻らないというのです。
もちろん、携帯も通じません。
妹の家は築40年くらいたつ、祖父母が住んでいた古い家でした。湖沼を埋め立てた住宅地の一角で、ため池のすぐそばにある家です。
最初の大きな揺れに妹は慌てて3才と1才の子供達を抱えて、外に飛び出しました。その目の前で、家は傾いていったのです。
地盤自体がもろい上に立てられた家でしたから、土台の土が土砂崩れを起こしてしまったのです。
窓ガラスは割れ、ドアは歪んで閉まらなくなりました。いつ崩れるか分からない家の中に入ることもできず、妹は子供達を車に乗せると近くの空き地に避難しました。
そこに、両親が様子を見にきてくれたのです。
妹は子供達を両親に預けると、自分は家に帰りました。いつ崩れてなくなってしまうか分からない家に子供たちの着替えや大切な物を取りに帰ったのです。


両親は孫達を預かるとすぐに自宅に戻って、妹を待ちました。
しかし、数時間たっても妹は現れず、危険な地域に小さい子供達を連れていくことも出来ずにじりじりとしながら待っていたそうです。
3才の甥っ子は眠ってしまい、1才の姪っ子は「ママ、ママ」と泣いていました。
あたりは暗くなり、停電のため、ラジオのニュースと防災無線だけが頼りでした。

そこに私が帰宅したのです。
両親は泣き叫ぶ孫を私に預けると、妹を探しに出掛けていきました。
この時、携帯は全く通じなくて、停電のため充電もできない状態でした。

私は姪っ子をあやしながら、携帯にダウンロードしてあったアンパンマンのテーマを聞かせて、不安を紛らわしていました。
わずか一時間くらいの時間でしたが、高台の我が家も本当に津波に耐えられるかどうかは分からず、激しい揺れも続いていました。
寒さを防ぐために、車のエンジンはかかっていたのですが、ガソリンやバッテリーのことも気にかかっていました。
しかし、明かりを消すことはできませんでした。
電気が普通につくということがどんなにありがたいことなのか、この時、初めてわかりました。

我が家は上下水道が通っていないので、トイレは昔ながらのスタイルでしたが、水は井戸水を汲み上げていたので、電気がないと使うことができません。
復旧は数日かかるだろうとこのときは思いました。
いざとなったら、井戸の蓋を開けて、人力で汲み上げればいいと考えていました。

そんなことを考えていると、3才の甥っ子が目をさましてしまいした。
「ママは?なんでいないの?」
今が普通の状態でないことは3才の子供でもわかっているようでした。
私は両手に子供達を抱えて、
「大丈夫、ママはすぐ来るから。ちー(私)と待ってよう」
何度も繰り返しました。
その間も、津波を伝える警報は鳴り響いて、地面はゆらゆらど揺れ続けていました。

ようやく妹を連れて両親が戻ってきた時には本当にほっとしました。
妹は、警察の検問にひっかかって、引き返すように言われ、さらには「○○地区(私の家の住所)は津波でもうだめだ。いかない方がいい」と言われていたのです。

この夜は車の中で過ごすつもりでしたが、ガソリンのことを考え、灯油の残るストーブで暖をとってみんなで寝ることにしました。
比較的、被害の少なかった居間に灯油ストーブを置いて、布団を敷き詰めました。
家の中はめちゃくちゃで、足の踏み場もありません。食器棚の中のガラス製品は床に落ちて割れています。私の部屋は棚やテレビや植木が散乱して、無事なのはベッドの上だけです。

でも、私は動物のことが気にかかっていました。
普段とは様子が違っていたし、ひどくおびえているように見えたからです。
二階の部屋で犬を撫でていると、地震の度にぶるぶると体が震えています。
人間だって怖かったんだから、動物だって怖かったに決まっています。
家族は危ないから、1階で寝るように言いましたが、私は二階の自室に休むことにしました。
とりあえず、通るのに邪魔なものは避けて、ベッドに横になると、犬を抱き締めて眠りにつきました。
地震の度に目が覚めると、犬も慌てて布団にもぐってきます。
ぶるぶる震える小さな体を抱き締めて「大丈夫だよ守ってあげるから」と繰り返し、話し掛け・・・
浅い眠りにつきました。
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南相馬市にある被災猫シェルターです。 福島県原発被災地の猫のレスキュー、家族さがし、里親募集をしています。 多くの方に支えられて、活動を続けています。

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